完璧な国家体制は後世まで見本とされたイランの王朝!ローマ帝国が倒せなかったササン朝ペルシアってどんな歴史?

ローマ帝国やビザンチン帝国との争奪戦と制覇を繰り返すも戦いに勝ち、後世まで模範とされた国家体制を築いたササン朝ペルシアっていったいどんな国だったのか気になりませんか?でも実は、その発祥などはっきりしたことは、分かっていない謎の王朝なんです。ゾロアスター教を国教として信仰し、高度なイラン文明を作り発展させた「ササン朝ペルシア」の歴史に少しだけ触れてみたいと思います。

ササン朝ペルシアの始まり

ササン朝ペルシアの始まり

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ササン朝ペルシアは、ローマとの抗争で衰退状態にあった、アルサケス朝パルティア帝国を滅ぼして、アンダルシール1世によって創建された帝国です。
226~651年にイラン南西部の現在のファルス地方にあり、パルティア帝国のまま首都はクテシフォンとして新帝国を築いています。
パルティアは放牧人種だったのに対し、ササン朝は農耕イラン人へと変化しました。
また、王朝創建時にソロアスター教徒の支援を受けており国教としています。
この領域は中央アジアからメソポタミアに至っており、西方ではローマ帝国と激しい争奪戦を繰り広げました。

ローマ帝国との戦いの途中で戦没したアルダルシール1世の後を継いだシャープール1世はアルメニアを侵略するために、ローマ軍を破ったのです。
かなり強かったんですね。
また、この皇帝は東の強国インドのクシャーナ朝も圧迫しています。

シャープールの功績

シャープールの功績

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ササン朝ペルシア帝国としての体制が整ったのは、シャープール1世の時。
彼は、戦争に強い皇帝でした。
ローマ皇帝ゴルディアス3世がシリア遠征において、ササン朝ペルシアの首都クテシフォンの目の前まで迫りました。
しかし、244年にシャープール1世はマッシケの戦いで、ゴルディアス3世を敗死させ、勝利を収め帝国を守っています。
この時、ローマ皇帝に就いたフィリップは膨大な賠償金を払って和解する羽目となり、フィリップ王の時代には戦争は起こりませんでした。

しかし、260年にシャープール1世はエデッサの戦いで、7万にも及ぶローマ軍をほぼ壊滅させ、ローマ皇帝ウァレリアヌスを捕虜にしました。
ササン朝時代の岩窟遺跡「ナクシェ・ロスタム」には、シャープール1世の戦勝記念で造られた彫刻があります。
馬に乗ったシャープール1世が、捕虜となった東ローマ帝国皇帝ウァレリアヌスの右手をつかむ姿が描かれ、その大きさは7メートルにも及んでいます。
この遺跡のナグシェ・ロムタス=「ロムタス(伝説の英雄)の絵」という意味を持ち、名前はこのレリーフから来ています。
また、アンダルシール1世のレリーフ「騎馬叙任式図」も見事な造形美として遺跡の中でも有名です。

この後、ササン朝ペルシアとローマ帝国の関係は、複雑に絡み合い侵略における戦いが続きます。
パフラム2世の時代にはセイスタンを征服しインドを脅かすほどの存在までに成長しました。
しかし、ローマ帝国のカルスやディオクレティアヌスが統治する頃は、またもや首都クテシフォンにまで到達しています。
東ローマ帝国とは講和しつつも、滅ぼすところまではいかないという面白い関係が続きました。
しかし、ササン朝ペルシアは、思わぬ敵に悩まされてしまうのです。

統治体制が確立するシャープール2世の時代

統治体制が確立するシャープール2世の時代

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生まれると同時に即位し史上最長の在位期間となった王「シャープール2世」の時代には、アラビア人やトルコ人が来寇してきました。
彼は、バフラム3世時代の反乱を速やかに鎮めることに成功し、侵入してきたアラブ人も撃退。
アラブ半島に追撃をかけて降伏させました。
アルメニア問題も絡み、363年にクテシフォンの戦いで侵攻してきたユリアヌスを敗死させることで、アルメニアの支配権を握ることに成功しています。

彼の功績により、多くの都市を再建した上、頑丈な要塞と城壁を築いて敵から侵略されないように防備を固めました。
彼は、ナルセス1世の頃の宗教寛容策を捨てています。
そして、ゾロアスター教の教会制度を整備し、キリスト教やマニ教への圧力を強めました。
この時のキリスト教やマニ教への宗教迫害は相当なものだったようです。

エフタルとの戦い

エフタルとの戦い

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4世紀の後半になると、現在のアフガニスタンに突然遊牧民エフタルが勃興したのです。
クシャーナ朝を滅ぼし、トハリスタン、ガンダーラを支配下に置き、ササン朝ペルシアの国境辺りにまで侵略し、歳幣を要求するほどの成長ぶりでした。
しかも、484年にはササン朝ペルシアに対して侵入し、国王ペーローズを敗死させました。

ササン朝ペルシアでは、エフタルの捕虜となった経験を持つカワード1世が即位します。
彼は、マズダク教に理解を示し、貴族と聖職者によってエフタルの捕虜とならざるを得ない時期があったのです。
その経験を活かし、王になると通婚と朝貢により、侵略を回避することに成功しました。
バハラーム5世の時期に一度は回復しますが、 ヤズデギルド2世の時代には、エフタルがササン朝ペルシアの王位継承問題にまで首を突っ込むようになります。







エフタルからの奪還と栄光の時代

エフタルからの奪還と栄光の時代

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エフタルからの軛(くびき)を脱したのは、コスロー1世の時でした。
マズダク教による社会的混乱に陥っていた、ササン朝ペルシアの立て直しをやってのけた皇帝です。
彼は、外敵からの侵入を防御し、また侵略にも成功しました。
この頃の中央アジアより南イエメンにまで及んだようです。
この時代が、ササン朝ペルシアにおける最大の黄金期といわれています。
575年頃に南下してきたトルコ系遊牧民と手を結び、長年苦しめられてきたエフタルを滅ぼしました。

西方のビザンツ帝国に圧力をかけて、532年に和議に成功しています。
戦争を起こして敵国を占領しては賠償金を獲得し、捕虜も多く首都クテシフォンに連行したようです。
561年にはユスティニアヌス大帝との間で、「50年の和平条約」を結んでおり、西方国境を安定させました。
ユスティニアヌス大帝が地中海制圧において忙殺されてしまいます。
新プラトン派のギリシア人が逃れてきており、その人たちを受け入れると共に、哲学や科学を取り入れることができました。
その一方で、イエメンの占領に成功し、アラビア海におけるインドとの貿易路を抑え繁栄に導きました。
彼の功績は政治、経済、文化においても充実させています。
コスロー1世はビザンチンとの戦争であっけなくこの世を去ってしまいました。

ササン朝ペルシアの滅亡

ササン朝ペルシアの滅亡

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コスロー1世が亡くなった後は、波乱続きでササン朝ペルシアは衰退の一途をたどります。
後を継いだのが、オールマズド4世です。
しかし彼は590年にクーデターに遭い、恐ろしいことに両眼を潰された後に処刑されてしまいました。
その次はコスロー2世。
彼の時代も反乱が起こり、東ローマとの国境付近まで逃げますが王位は剥奪。
この後、スティニアヌス朝のマウリキウスの援助を得て反乱を鎮圧するも、マウリキウスが602年に殺されてしまいました。
これにより、コスロー2世は、仇討ちとしてビザンチン・サーサーン戦争を起こしています。

残念なことに、ビザンチン帝国との長年に亘る争いは、東地中海、レヴァント地方、シリア、メソポタミアなどでの東西貿易を衰退させることになりました。
戦火を恐れた商人たちが、アラビア半島南部ヒジャーズ航路を利用したことで、メッカやメディアが逆に繁栄しました。
7世紀には、イスラーム勢力がアラビア半島を支配するようになります。
637年にカーディシーヤの戦いでササン朝ペルシア軍を破ったのです。
当時の王ヤズデギルド3世は各地を敗走しますが、651年にメルヴで従者に殺害され、ササン朝ペルシアはとうとう滅亡しました。
ここからイランはイスラーム化し、

ササン朝ペルシア時代のイラン文化とイスラーム文化が融合し、新たな文化が起こっていきます。

ササン朝ペルシアの起こしたイラン文化は、現在も世界各地で形を変えて息づいています

イラン・イラク戦争などさまざまな争いが絶えないイランですが、ササン朝ペルシア時代の遺跡が現在も「ナグシェ・ロスタム」や「ナグシェ・ラジャブ」、「ターゲ・ボスターン」などで見られることができます。
ぜひ、サザン朝ペルシアが起こした文化を振り返りながら、人気急上昇の観光国イランを旅してみませんか?
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