観光の前に知りたい「リオデジャネイロ」の歴史。この都市の光と影

ポルトガル人の植民ではじまる歴史

ブラジルの地にはもともと後に「インディオ」と呼ばれることになる先住民が生活していました。
インカ帝国のような巨大な国家も存在せず、社会階級もなかったと言われています。
そのブラジルの歴史は、1500年にカブラルを司令官とする船隊がこの地を「発見」したことから大きく動き始めます。
ポルトガルはブラジルの地を植民地として宣言し、1548年には統治のために「総督制」を採用して総督を現地へ派遣しました。

リオデジャネイロとは、ポルトガル語で「1月の川」を意味します。
1502年の1月、この地にはじめて到達したポルトガル人は、細い湾の形を見て川だと勘違いしたのです。
「リオデジャネイロ」という「河川名」は、この地の集落の名称として定着します。
その後17世紀までのリオデジャネイロは、北部に比べると規模の小さい港町に過ぎませんでした。

当初、ブラジルにはインドの香料のようなうまみのある特産物がなかったため、あまり重要な植民地とは思われていませんでした。
しかし、ブラジルにサトウキビ栽培が導入されたことで一気に地位が向上します。
ときにオランダとの抗争の舞台になりつつも、17世紀半ばまでブラジルは砂糖生産世界一の地位にあり続けたのでした。

金の積み出し港として大発展!

リオデジャネイロがブラジル随一の都市になれたのは、ひとえに金のおかげでした。
17世紀半ばになるとブラジル以外での生産量が増えたために、砂糖の価格も下落し、利益が上がりづらくなっていました。
そんな中、17世紀末にブラジル南部の内陸地域で金鉱、続けてダイヤモンド鉱が発見されたのをきっかけに「ゴールドラッシュ」が始まります。
18世紀前半には金鉱のある地域とリオデジャネイロとの間を結ぶ街道が整備され、リオデジャネイロは金やダイヤモンドの積み出し港として大きく発展しました。
また、金がもたらす利益は社会全体にも波及し、はじめて消費財に対するブラジル国内市場が形成されるとともに、牧畜業の発展も促されました。

18世紀後半になると金はほとんど枯渇してしまいますが、それでもブラジル総督が北部から南部のリオデジャネイロへ拠点を移動させるなど、名実ともにリオデジャネイロがブラジル植民地の中心と目されるようになります。
18世紀末になると、ブラジル人たちはポルトガル政府の支配に不満を強めて反乱を繰り返すようになりました。
1794年には、ここリオデジャネイロでも政府に対する「陰謀」が企てられますが、鎮圧されています。

ブラジルの首都に!

ブラジルの首都に!

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王族のリオデジャネイロ移転

次なる転機は19世紀前半に訪れました。
なんと、リオデジャネイロがポルトガル全体の首都になったのです。
原因は、ヨーロッパにおけるフランスとイギリスの対立にポルトガルが巻き込まれたことにありました。

フランスの当時の皇帝ナポレオンは「大陸封鎖令」という命令を発し、イギリスをヨーロッパの貿易網から閉め出すことでイギリス経済に打撃を与えようと試みます。
ポルトガルはイギリス側につくことを選択したため、ナポレオンはポルトガルの首都リスボンに侵攻したのです。
ポルトガル王室はイギリス軍艦に護衛されながらブラジル・リオデジャネイロに亡命。
この地に仮政府が設置されたことで、リオデジャネイロはリスボンに代わる新たな「ポルトガル・ブラジル連合王国」の首都に決定されました。

王室がリオデジャネイロに移転したことで人口が増加し、ポルトガルの(王室を含めた)上流階級の影響を受けて文化的にも発展を遂げます。
首都機能を果たすための建設ラッシュも起こり、行政機能を備えるに至ったリオデジャネイロは質量ともにますます発展していきます。

独立した後も首都として整備が進む

1815年にフランスがポルトガルから撤退しますが、今度はイギリス軍がポルトガル領内に駐留を続けたことで、王室は帰還できないままでした。
しかし、1820年にはイギリス軍に対する反乱が成功し、ポルトガル人有志は臨時憲法を制定して国王の帰国を要請。
1821年には王室のほとんどがポルトガルへ帰国します。
1822年には、ブラジルに残されたペドロ王子がポルトガル本国に対して独立を宣言し、ここにブラジル帝国が成立します。
リオデジャネイロはブラジル帝国の首都として再出発を切りました。

ブラジルの独立は、フランスのような民衆の独立運動によるものではなく、上層階級(大農園の経営者など)がポルトガルの支配に反対した結果生まれてきたものでした。
「自由」「平等」のような理念は彼らの独立運動には存在しなかったことで、独立後も旧来の支配体制はほとんど変わらなかったのです。
また、イギリス経済に依存したブラジル経済の構造も変わらず、実質的にはイギリスの植民地のような対外従属関係も変わりませんでした。
現在に続くリオデジャネイロの貧富の差という構造的な問題は、この時の独立運動のあり方に端を発すると言えるでしょう。

19世紀以降のインフラ整備について

19世紀以降のインフラ整備について

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帝政下で鉄道網が発達

独立した1822年から1889年まで(途中「摂政時代」を挟みますが)、ブラジルは国王がほとんど直接(独断で)政治を進める帝政が行われていました。
そんな帝政時代に、コーヒーがブラジルの主な産業として確立されます。
1854年には、リオデジャネイロ郊外のコーヒー産地とグアナマラ湾を結ぶ初の鉄道が開通して以来、リオデジャネイロを終点とする鉄道が次々に建設されます。
リオデジャネイロは、政治のみならず経済的にも中心的な地位を保ち続けました。
また、それに合わせてガス灯、電気、上下水道などといったインフラの整備も進み、リオデジャネイロはスマートで近代的な都市としての趣を備えるようになっていきます。

一方で、人種差別の温床としての奴隷制は19世紀後半まで維持されたままでした。
ブラジルは、世界で最も奴隷解放の遅れた国でした。
1865年にアメリカ合衆国で奴隷制が廃止されたことに影響を受け、ブラジルでも奴隷解放運動が始まります。
しかし、中心産業であるコーヒー農園には安価で大量の労働力が必要。
こうした事情もあり、支配層は奴隷解放に乗り気ではありませんでした。

しかし、19世紀末になると奴隷が農園から周辺都市に集団逃亡を開始。
奴隷人口の割合が激減すると解放運動は激しさを増し、ついに1888年に黒人奴隷制度の即時廃止が実現したのです。
これは、リオデジャネイロ郊外のコーヒー農園主たちにとっては大きな経済的ダメージでした。

共和制下の都市計画

奴隷解放によって、帝政は民衆のみならず大土地所有層からも支持を失う結果となりました。
翌年の1889年にはクーデターがあっさり成功し、帝政は打倒されて共和制(王のいない政治体制)がスタートします。
リオデジャネイロは、引き続き新生「ブラジル連邦共和国」の首都となりました。
解放された黒人奴隷たちが大量に流入したことで、リオデジャネイロの人口は急速に増加しました。
それとともに、グアナマラ湾周辺に限られていた市街地も無計画に拡大し、黄熱病をはじめとした伝染病も発生します。

こうした状況を受け、1902年から都市計画がスタートします。
1903年には幹線道路が整備され、インフラ整備と衛生状態の改善が図られます。
先に紹介したリオデジャネイロ市立劇場が建設されたのも、このときの都市計画の一環と考えることができます。
南のコパカバーナやイパネマに続く道も建設され、市街地は南方へ延びていきました。

ただ、この時期にはリオデジャネイロを凌駕するほど、北部のサンパウロの発展が著しいものでした。
連邦共和制が実施されたことで、サンパウロ州政府はリオデジャネイロの中央政府から独立した形で政治・経済政策を進めることが可能になります。
徐々に、リオデジャネイロはブラジル最大の都市の座を奪われていきます。

「音楽の都リオデジャネイロ」の誕生

「音楽の都リオデジャネイロ」の誕生

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サンバとボサノヴァが誕生

1888年に奴隷解放が実施されると、黒人たちが大量にリオデジャネイロに流入し、町を形成します。
これがファヴェーラです。
ファヴェーラは貧民層中心のスラムとして拡大し、その過程で黒人独自の文化を生み出しました。
詳細過程は明確ではなく異論も多いのですが、このときに生み出された黒人文化の一つがサンバである、というのが通説です。

当初、サンバは差別された黒人の文化として、支配階級(白人)には受け入れられませんでした。
しかし、1930年代に成立したファシスト的なヴァルガス政権が国威発揚策を進めた際、このサンバが「多様な要素が入り混じることで力を生み出す、強いブラジル」の象徴として取り上げられたのです。
公式のカーニバルが初めて開催されたのもこの時代でした。

また、第二次大戦後、コパカバーナやイパネマ地区に住む中産階級の学生・ミュージシャンらによって、アメリカのポピュラー音楽の影響を受けた「新感覚のサンバ」が生まれます。
これがボサノヴァ(ポルトガル語で「新しい感覚」)です。
ブラジル国内では、ボサノヴァは白人の中流階級以上、しかも高い年齢層の聞く音楽というイメージが定着しています。

あなたは「ショーロ」を知っていますか?

日本ではサンバやボサノヴァほどポピュラーではありませんが、リオデジャネイロの音楽と言えばショーロを忘れてはいけません。
ショーロも、19世紀にリオデジャネイロで誕生したポピュラー音楽の一つ。
フルート、ギター、バンドリン(マンドリンと似たような弦楽器です)などで編成されたバンドによるもので、曲のバリエーションはかなり多様です。
20世紀前半から後半にかけて活躍したフルート奏者(後にサクソフォンに持ち換える)であるピシンギーニャがショーロを大きく発展させました。
彼の作曲した「カリニョーゾ」はショーロの代表曲であるばかりか、ブラジル第二の国歌と言われるほど国民に愛されました。
今でも、ピシンギーニャの誕生日である4月23日は「ショーロの日」に制定されています。

ショーロが黒人音楽に取り込まれたことでサンバが生まれ、白人中産階級の若者たちはピシンギーニャの音楽に影響を受けて洗練されたボサノヴァを生み出しました。
ショーロがなければ、音楽の都としてのリオデジャネイロは存在しなかったと言ってもよいでしょう。
You Tubeでもショーロの代表曲を聴くことができますよ。

ブラジル第二の都市として定着

次のページでは『徐々に経済の中心はサンパウロへ』を掲載!
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Writer:

和菓子好きの34歳男。某塾で歴史を教えていた経験があります。複雑な情報をうまく整理できたときの快感がたまらなく好きです。私の文章がそんな「快感」を共有できるものになれば・・・と思いながら、日々文章を書いています。

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