ガラパゴス諸島はなぜ世界遺産になったのか?その成り立ちと歴史

孤立した環境の中で独自の進化をとげたことを「ガラパゴス化」と表現することがあります。ガラパゴスとはもちろん、ダーウィンの進化論で有名な『ガラパゴス諸島』のこと。独自の進化とは?世界遺産(自然遺産)第一号に認定された理由は?数奇な運命をたどった不思議なこの島の歴史と魅力に迫ります。

世界自然遺産・ガラパゴス諸島

世界自然遺産・ガラパゴス諸島

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ユネスコ自然遺産

優れた自然の景観や地形、貴重な動植物が生息する場所など、世界的に守り継承する価値があ地域を、世界条約に基づいてユネスコが登録する世界遺産のカテゴリのひとつ。
2016年の時点で203件の場所・地域が自然遺産に登録されています。
有名な所ではオーストラリアのグレート・バリア・リーフやアメリカのグランドキャニオン国立公園、アフリカ大陸のヴィクトリアの滝、中国の九寨溝(きゅうさいこう)などどれも、訪れた人々を魅了してやまない地域の名前ばかり。

日本では、屋久島(鹿児島)や白神山地(青森・秋田)、知床(北海道)、そして小笠原諸島(東京)の登録は記憶に新しいところ。
特に小笠原諸島はしばしば「東洋のガラパゴス」と形容されることがあります。
なぜ”ガラパゴス”と呼ばれるのでしょうか。

豊かな自然を持つ地域は世界中、他にもにたくさんあります。
でも「東洋のガラパゴス」と聞いてなぜか納得できる。
「ああ、手つかずの自然があって、固有の動植物がたくさん生息している場所なんだな」と、何となくイメージすることができる。
”ガラパゴス”という言葉には、そんな力があるのかもしれません。

ガラケー

話は少し逸れますが、”ガラケー”という言葉をご存知でしょうか。
”ガラパゴス携帯電話”または”ガラパゴス化した携帯電話”の略で、スマートフォンが登場する前の携帯電話のことを指しています。
日本の携帯電話は世界標準に沿わず、長いこと独自の進化をとげてきました。
着うたやワンセグ、おサイフケータイ、ゲームなどがその一例です。
日本の携帯電話は世界標準とは通信規格が異なるため、日本固有の技術や機能が広がり、また、海外の携帯電話産業が台頭することもありませんでした。
この様子をガラパゴス諸島になぞらえて”ガラケー”と呼ぶようになったのです。

”ガラケー”と聞くと、「時代遅れ」「進化していない」「古くさい」といったイメージを持つ人も多いと思いますが、そういう意味ではありません。
閉ざされた領域で見られる独自の進化。
それを”ガラパゴス化”と呼ぶのです。

自然界のみならず、様々な分野に影響を与えているガラパゴス諸島。
今や、「進化」や「生態系」の代名詞となったその理由の鍵を握る人物がいます。
イギリスの自然科学者、チャールズ・ロバート・ダーウィンです。
ダーウィンこそ、ガラパゴス諸島を自然界の象徴的な存在にのし上げ、”ガラケー”といった言葉の誕生を促した人物。
ガラパゴスの歴史を語る上で欠かせない存在です。

ダーウィンの軌跡と共にガラパゴス諸島の歴史を紐解いていきましょう。

ガラパゴスはどこにある?

ガラパゴスはどこにある?

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歴史をたどる前に、ガラパゴス諸島についての基本を押さえておきましょう。

ガラパゴス諸島は南米大陸の西側にあるエクアドル共和国の領土。
場所は、エクアドルから西におよそ1,000km離れた赤道下にあります。
おおよそ東西300km、南北380kmに及ぶ広い洋上に、比較的面積のある主な19の島と、100を超える小さな島や岩礁が点在しています。
そのうち、有人島は4つ。
さらにその中の2つの島に空港があります。

島には近代的な街やリゾートホテルなどがあり、およそ30,000人が生活。
主要言語はスペイン語。
通貨は米ドルが使えるそうです。

東京都の距離は一直線で測ると14,000kmにもなり、残念ながら直行便はない様子。
北米アトランタやヒューストンなどの都市を経由してエクアドルへ。
キトという都市からおよそ2時間ほどでガラパゴス諸島に到着します。
乗り継ぎ時間にもよりますが、35時間以上かかる長旅になるようです。
日本との時差は14時間。
赤道直下ですが海流の影響もあり、日差しは強いけれど比較的過ごしやすいそうです。

近年では、エクアドル政府により自然保護の目的で、入島人数の制限などの規制が行われているとのこと。
観光と自然保護。
両立させようと、多くの人の力が注がれています。

絶海の孤島

1,000kmというと、東京から鹿児島までのおおよその直線距離に相当します。
広い広い太平洋。
南米大陸から1,000kmというと、それほど離れていないようにも思えます。
しかし、なんと、ガラパゴス諸島より西側の赤道上には、10,000キロメートル以上、陸地らしきものはありません。
まさに絶海の孤島。
この島は長い間、人を拒み続け、そして独自の生態系をはぐくんできたのです。

ところで、一般には『ガラパゴス諸島』という名前で通っていますが、正式名称は南米大陸の発見者クリストファー・コロンブスにちなんで『コロン諸島』(コロンブスの群島)という名称があります。
しかし、正式名称の方はほとんど使われることがありません。

『ガラパゴス諸島』の由来は、この島の象徴でもある「ゾウガメ」。
スペイン語でゾウガメのことを「ガラパゴ(Galapago)」ということから、ゾウガメが多数生息しているこの島のことを『ガラパゴス諸島』(ゾウガメの島々)と呼ぶようになりました。

一般名称は『ガラパゴス諸島』ですが、南米大陸発見者のコロンブスにちなんだ名前が正式名称、というところも、この島がたどる運命を暗示するようで興味深いです。

16~18世紀のガラパゴス諸島

16~18世紀のガラパゴス諸島

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ガラパゴス諸島の発見

南米大陸には、北部を中心に栄えたインカ帝国と呼ばれる国家がありました。
古代アンデス文明を引き継ぎ16世紀中頃まで栄えましたが、1533年、ピサロ率いるスペイン軍に征服されて滅亡します。

その後、キリスト教布教のため、聖職者が次々とインカを訪れます。
その中のひとり、スペインの伝道師フレイ・トマス・デ・ ベルランガを乗せた船が潮に流され、苦難の末、飲み水や馬のまぐさを求めてガラパゴス諸島に漂着しました。
これが、記録に残る最古の「ガラパゴス発見」とされています。

このときベルランガは、飲み水や食料に苦労しながらも島の様子を記録。
後に法王へ報告しています。
記録の内容は、島の位置や大きさなどのほかに、トカゲ(イグアナ)やゾウガメ、アシカなどの様子や、岩だらけで植物が見当たらないなど、動植物についての記述もありました。
ベルランガの記録によれば、ガラパゴスの生物たちは簡単に捕えることができるほど警戒心が少なかったようです。

20世紀に入ってからこの島に上陸した考古学者たちの中には、もっと古くから、インカ帝国の時代からこの島を訪れた人間がいるのではないか、と主張する者もありました。
土の中から古い土器が見つかったのです。

確かに、南米大陸の原住民たちは古来より優れた造船・航海技術を持っていたと考えられています。
しかし、土器がいつ頃持ち込まれたものか一概に言えないなど、この説については現在でも明確な証明には至っていません。
ベルランガより後の時代に島にやってきた人々が持ちこんだもの、という可能性もあるようです。

とにかく、ベルランガの上陸以来、周辺はスペイン船が頻繁に行き来するようになりました。
1570年代の世界地図には、既にこのあたりに島が描かれているのです。

海賊と捕鯨時代

ベルランガによるガラパゴス発見後、17世紀に入ると、インカから金銀を運び出すスペイン船を狙う海賊船が横行するようになります。
海賊たちはガラパゴスの島々の影に隠れ、獲物を狙っていました。
海賊の中にも、ガラパゴス諸島の様子を書き記した者がいて、ベルランガと同様、飲み水や木がないことや、生き物たちに警戒心がないことなどの記録が残っています。

18世紀に後半になると、イギリスやアメリカの捕鯨船が姿を現しはじめました。
地図にはガラパゴス諸島の島々が詳しく書かれるようになり、一帯は、クジラの漁場として定着。
この小さな群島近くにもたくさんの船がやってくるようになりました。
この時代には船を接岸するだけでなく、島に住居を構えて生活を始める者も出てきたのです。

多くの船が行き来するようになったことが、ガラパゴスの最初の受難と言えるでしょう。
海賊や捕鯨の時代、この島を訪れた者たちは手近な食料としてゾウガメを乱獲していきました。
さらに、生活の糧として家畜や農作物を持ちこんだのです。
島にはいなかったヤギやブタ、レモンやオレンジなどの果樹なども植えられました。

ガラパゴス諸島には、大型の哺乳類はいませんでした。
だからこそ、ゾウガメやイグアナのような大型の爬虫類の数が増えていったのでしょう。
この時代に放たれた家畜は野生化し、今も野で生活しているのだそうです。

エクアドルの領土へ

1832年、エクアドル共和国がガラパゴス諸島の領有を宣言し、フロレアナ島という南側に位置する島に入植を始めます。
小さな村が作られ、島に近付く捕鯨船にゾウガメを売ったりして生計を立てていました。
その後、エクアドル政府によって流刑地に定められたことなどから、フロレアナ島の村はいったん散会。
村人は別の島へ移っていきます。

その後も、島への入植者は後を絶ちませんでした。
豊かな漁場と警戒心なく楽に捕獲できるゾウガメの存在は、彼らにとって魅力だったのかもしれません。
しかし、ガラパゴス諸島の島々は、人間が暮らすには厳しい場所だったはず。
かつてベルランガが体験したように、この島には植物が乏しく、雨がほとんど降らないため真水が少ない。
島は溶岩に覆われており、土が少なく作物が育ちにくい。
実り豊かな島とは言えません。
それでもなお多くの人がこの島を訪れ、ゾウガメを捕獲し、家畜を放ち、何かしら爪痕を残していったのです。

ダーウィンの登場

ダーウィンの登場

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人物像と時代背景

ガラパゴスがエクアドルの領土になった1832年から3年後、ひとりの若き学者が島へやってきます。
イギリス人学者チャールズ・ロバート・ダーウィンです。
彼はどのようないきさつで、地球の裏側までやってくることになったのでしょうか。

19世紀に入ると、地理や自然調査目的の船が捕鯨船に混じって現れるようになりました。
地図作成のための測量が目的の船が多く、彼らは測量と共に、島の自然や動植物についても様々な記録を残しています。
これらの測量船には、植物学者などが同乗していることもありました。
アジアやアメリカ大陸へ直接出かけていく船は学者たちに、未知の動植物発見の機会を与えてくれていたのです。

ダーウィンは1809年、貴族ではありませんが比較的裕福な家庭に生まれています。
父は医者。
母はあの陶磁器メーカーであるウェッジウッド創業者の娘。
そして祖父も高名な植物学者でありました。

ダーウィンは父の勧めで医者を志しており、大学も医学部に入っています。
しかし水にあわなかったのかすぐ退学。
これもまた父の勧めで、ケンブリッジ大学の神学部に入り直し、牧師を目指していました。
この大学で運命の出会いが。
植物学者で博物学にも精通したヘンスロー教授の講義を受け、深い感銘を受けた後、神学を続けつつも博物学にのめり込んでいきます。

ビーグル号乗船

1831年の夏の終わり、ダーウィンはヘンスロー教授からとある推薦を受けます。
南米の最南端の測地探検に生物研究者として同行しないか、というものでした。
このときダーウィンは22歳。
こんな機会はまたとないと喜び、反対する父を説き伏せ、暮れも押し迫った12月27日、イギリスを離れて一路南米大陸を目指したのです。

ダーウィンを乗せたビーグル号は、大西洋を渡って南米大陸を南下。
途中、たびたび上陸してはその地の動植物を観察したり、化石の掘り起こしなども行ったりと、精力的な活動を続けていたようです。

1834年にはビーグル号はマゼラン海峡を通過し太平洋へ出ます。
イギリスを出て既に3年が経過。
ここから南米大陸の西側に沿って北上を続け、1835年、とうとうガラパゴス諸島に到着することになるのです。
イギリスを出て4年近い年月が過ぎていました。

彼がガラパゴス諸島に滞在していた期間はおよそ5週間。
9月15日から10月20日までであったと、『ビーグル号航海記』に記されています。

ダーウィンが見たガラパゴス

ダーウィンが見たガラパゴス

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記録によればダーウィンは5週間の滞在期間の間、4つの島に上陸しています。
溶岩で覆われた黒い不毛の大地と、島固有の生物たち。
しかも、4つの島ごとに生物たちの形状に違いが見える。
しかし彼はこのとき既に、これらの生物が南米大陸の生物と何らかのつながりがあることを見抜いていました。
この群島は”南米の衛星”であろうと、そう書き残しているのです。
ダーウィンは、何らかの理由で南米から渡って来た生物たちが、この島で独自の進化をとげているということを、見抜いていたのではないかと考えられています。

ダーウィンは島を巡りながら、島ごとにゾウガメの甲羅の形が異なること、フィンチやマネシツグミなどの小さな鳥たちのくちばしの形が異なること、サボテン類など植物にも島ごとに異なる特徴が見られることなどなどに着目し、監察を続けました。
その様子は、イギリスに帰国した数年後に発表した『ビーグル号航海記』でも熱い言葉で記されています。

ガラパゴスを離れたダーウィンたち一行は赤道付近を西へ移動し太平洋を横断。
タヒチ、オーストラリアを経由してアフリカの喜望峰を回ってイギリスへ帰国しました。
5年を超える航海の間、ダーウィンは世界各地で貴重な体験を積むことができたのです。

多くの地域を巡ってきたダーウィンですが、特にガラパゴス諸島で目にした生物たちの様子が心に残っていたのでしょう。
大陸に比べればチリのような小さな陸地に、溶岩でできている大地に、赤道直下という気候の下に、アメリカ大陸の生物たちと類縁を示した生物たち。
さらに島ごとに少しずつ違う表情を見せる生物たちはどのようにして造られたのか。
このとき心に浮かんだ疑問が帰国後20年以上経過してから、『種の起源』の出版へと繋がっていくのです。

種の起源

ダーウィンが暮らした19世紀より以前の人々にとっては、生きとし生けるものはすべて神が造られたもの。
聖書にそう書かれているのでみんなそう思っていた、そんな時代でした。
いろいろな種類があるのも、神が万物を創造したその一度、そのときに造られたもであると考えられていたのです。
それが徐々に、古い地層から現世には存在しない形の生物の化石が発見されるなど、新しい考え方が生まれ始めた時期でもありました。

ダーウィン以外にも、生物の進化を説く学者は存在していました。
生物の形態や種類は不変ではない。
しかしまだ、進化の仕組み、必要性・要因などの科学的な説明には至っていなかったのです。
ダーウィンは5年間のビーグル号での旅で得た経験をもとに、それらを自然環境や他の生物との関係性の中に見出そうとしていました。
そして1859年11月、ビーグル号の帰国から23年もの歳月を経て『種の起源』が刊行されます。

その中でダーウィンは”自然選択”という言葉を用い、生物は置かれた環境に適応して変化したり分岐したりして多様な種が生まれる、と主張しています。

ガラパゴス諸島の島々で見た生物は、南米大陸から漂着した祖先たちから、島に適合した形に姿を変えたのです。

『種の起源』で述べられた学説は、賛否はあったようですが概ね受け入れられ、『ビーグル号航海記』と共に、多くの学者たち魅了しガラパゴス諸島へと導きました。
自然選択説は現代の進化生物学の基礎のひとつとなっています。

ガラパゴス諸島は、なぜ、ダーウィンを始め多くの学者たちを惹きつけたのでしょうか。
次に、島の成り立ちと島に暮らす生物たちについて見ていきましょう。

ガラパゴスの生物たち

ガラパゴスの生物たち

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海洋島

世界にはたくさんの島があり、島にはたくさんの生物の暮らしがあります。
日本も言ってみれば島国。
私たち日本人はどこから来たのかと問うてみれば、数十万年前まで中国大陸と陸続きの箇所があって行き来できたのだ、という解答にたどり着くのではないでしょうか。
やがて地殻変動により大陸と切り離され、今のような日本の形になり、祖先もこの地に腰を落ち着けることになったのです。

現在は海に浮かぶ島々でも、そのほとんどが、地殻変動によって大陸から切り離されたものであり、一度はどこかの大陸に属していたと考えられています。
その島に生息する生物も、切り離されるより前からそこにいたものたちであると、そう考えるのが自然です。
このような島のことを”大陸島”と分類します。

一方、ガラパゴス諸島はというと、実は大陸島ではないのです。
過去に一度もどの大陸と陸続きになったことがない島のことを”海洋島”という分類に属します。
海洋島は海底火山活動や噴火、サンゴの隆起などによってできた島のこと。
ハワイや小笠原諸島も海洋島のひとつです。

海洋島には、もともとは何の生物も存在していません。
偶発的に漂着した生物があれば、それがそのまま島の生物相(せいぶつそう・特定の環境・地域・時代に生息する全ての種類のこと)の基礎となるわけです。
そのため、両生類や哺乳類など海水に弱いものが海洋島にたどり着く可能性は低いとされています。
一方で、海を渡ることができる海鳥などは、外敵から身を守るためあえて海洋島に集団を作ることがあり、こうしたことから生物相に偏りが出るのも、海洋島の特徴のひとつなのです。

植物たちはどこから?

ガラパゴス諸島が誕生したのは、500万~1000万年前から続く火山活動によってできた島だと考えられています。
当然、最初は生物などいるわけがありません。
南米大陸からはおよそ1,000km離れています。
しかも、太平洋の3,000~4,000mの深海大平原に立つ水深約500mのガラパゴス海台の上に乗っている島なのです。
なお、ガラパゴス諸島の火山活動は今もなお続いています。

深海に囲まれた絶海の孤島に、生物たちはどこからどうやって流れ着いてきたのでしょうか。

まず植物についてですが、少々不思議な現象が見られるようです。

南米大陸からガラパゴス諸島方面に向かっていい具合に貿易風が吹いているので、1,000kmという距離を考えると、軽くて小さい、風で飛ばされやすい胞子がたくさん飛んできそうな感じがします。
シダやコケ、キノコ類などが胞子で増える植物ですが、島のシダやコケのほとんどはガラパゴス固有の種類ではないのだそうです。
なぜ胞子植物の固有率が低いのか、理由は明らかになっていません。
一方で、種で増える植物(被子植物)の固有率は50%を超える(双子葉類)そうで、このあたりの理由も不明とのこと。
植物たちが語ってくれるまでには、まだ時間がかかるのかもしれません。

動物たちはどこから?

動物たちはどこから?

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動物たちはというと、大きな特徴として爬虫類の存在が挙げられます。
ゾウガメ、イグアナ、ヤモリ、ヘビなど、大小様々な爬虫類のすべてが固有種。
一方、カエルなどの両生類の固有種は皆無で、哺乳類もコウモリとネズミが1種類ずつ確認されているだけ。
大型の哺乳類がいないため卵を狙われることがなかったのでしょう。

同じ海洋島でも、ハワイには固有の爬虫類はおらず、小笠原も1種だけとのこと。
これは、雨が少なく乾燥しているガラパゴス諸島でも、爬虫類たちは耐え抜くことができたからではないかと考えられています。

では、生物たちはどうやって島へやってきたのかというと、海流か、気流の影響であろうと考えられています。
ガラパゴス諸島には、大陸から貿易風が吹きつけていることは先ほどお話しした通りです。
これに乗って、海鳥たちがやってきた可能性は高いでしょう。
身体の小さな鳥には1,000kmの距離を飛行することは難しいでしょうから、彼らはおそらく、何か漂着物に乗ってたどり着いたのではないかと思われます。

海流についても、大陸方面から南赤道海流が、北方面からパナマ海流が流れ込むため、多くの海洋動物や爬虫類たちは海流に乗って流れ着いたか、あるいは、大陸の浜辺に産みつけられた卵が流され漂着した可能性も考えられるようです。

気の遠くなるような長い時間をかけてこの島に流れ着き、子孫を増やしていったのでしょう。

生物進化の実験室

ガラパゴス諸島を代表する生物といえば、島の名前の由来にもなっているゾウガメの存在は欠かせません。
諸島にいるゾウガメの種類は1種ですが、甲羅の形が異なるなど、島ごとにそれぞれ15種類の亜種が存在し、そのうちの4種が既に絶滅したと考えられています。
警戒心が低く、数多く人間に捕獲され食料にされてきたことが激減・絶滅の一番の理由であることは、前述のとおりです。
また、捕鯨が下火になってからも、人為的に持ち込まれたネズミやネコなどによって卵が食べられてしまうなどの現象も起きています。

ゾウガメと同じくガラパゴス諸島を代表する生物としてイグアナを思い浮かべる人も多いはず。
特に、世界中に数百種類いると言われているイグアナの中で唯一、海に潜ることができるという、ウミイグアナの姿は、ガラパゴスの象徴とも言えるでしょう。

ガラパゴス諸島には陸に暮らすリクイグアナもいて、サボテンの実などを食べて暮らしています。
異常気象がなどの影響で一部のリクイグアナが食べ物を求めて海へ入りウミイグアナになりました。
元は同じ種類のイグアナだったのに、一方は陸に残り、一方は海に適合できるよう変化していったのです。
ウミイグアナは岩場の海藻などを食べるので、岩につかまることができるよう爪が鋭くなっています。

近年、新しいタイプのイグアナが発見され、大変話題になりました。
その名も”ハイブリッドイグアナ”。
鋭い爪を持ち、サボテンに登って実を食べることができ、海に潜って海藻を食べることもできる。
エルニーニョなど異常気象の影響で海藻が不足したことなどが原因と考えられていますが、これを進化と呼ぶかどうかはまだ定かではありません。

通常、陸続きの場所であれば、異常気象で食料が不足した場合は他の地域に移動することも可能です。
しかしガラパゴスのように限られた空間の中で厳しい気象条件などが加わった場合、生物たちはギリギリのところでどういう選択をするのか。
過去の遺物ではなく今現在、地球上で起きている生物の変化を見ることができる場所。
ダーウィンの『種の起源』の刊行により、一躍、脚光を浴びることとなったこの島は「生物進化の実験室」とも言われ、今も多くの人々を惹きつけているのです。

nekoichi(猫壱)

Writer:

歴史と歴史小説と遺跡を愛してやまない東京都在住の主婦。子供のころからの大の時代劇ファン。国内外問わず歴史小説を読むようになり、NHK人形劇「三国志」を見て中国史にはまって大学では東洋史学を専攻。愛猫とじゃれながら歴史小説を読み漁る毎日を送っている。趣味は古地図を眺めることとカメラ片手の街散策。

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